樋口一葉(朗読・平野綾)
東京の吉原(よしわら)に程近い下町。勝気(かちき)で活発な少女、美登利(みどり)は将来、遊女になることが決まっていた。彼女は龍華寺(りゅうげじ)の僧侶の息子で内気な少年、信如(のぶゆき、しんにょ)に淡い思いを抱いているが、町内で二つに割れたグループ同士の諍い(いさかい)のため、話しかけることもできなくなってしまう。ある日、下駄の鼻緒を切って困っている信如に端切れを投げかけたが、信如は受け取らずに去る。悲しく思った美登利だったが、ある朝水仙が家の格子戸に差し込まれているのを見つけ懐かしく思う。その日は信如が僧侶の学校に入る当日であった。
樋口一葉(ひぐち いちよう)は自身が貧しく、小説も文学が好きだからというだけではなく、生活のために書いた人。その分、作品には鬼気(きき)迫るものがあり、古典文学から学んだ文体として、才能が炸裂(さくれつ)した。『たけくらべ』は、それぞれの運命に逆らえない美登利と信如の切なさが背景にある。ラス卜は運命に導かれていく中での二人の最後の接触である。これは宿命の重さと共に、子ども時代の終焉(しゅうえん)をも暗示している。とはいえ、作品中の子どもたちは実に生き生きとうまく描かれている。そして、音読してみると、森鷗外も絶賛した、これからの日本では絶対に生み出しえない日本語の美しさがよくわかる。耳で聞いたほうが内容がわかりやすくなるのは、いい日本語の特徴でもある。
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美登利は、あの日以来、別人のように立ち居振る舞いが一変した。用事のある時には廓(くるわ)の姉のもとに出かけるものの、町に出てみんなと遊ぶことはまるでなくなった。友達が淋しがって誘いに行くと、「そのうち、そのうち」という口約束ばかりで、あれほど仲のよかった正太郎とさえつき合わなくなった。いつも恥ずかしそうに顔を赤くするばかりで、筆屋の店で手踊りした時のような活撥さは、もう見ることができそうもなかった。
美登利はかの日を始めにして生れかわりし樣の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通え、かけても町に遊ぶことをせず、友達さびしがりて誘いにと行けば今に今にと空約束はてしなく、さしもに中よし成けれど正太とさえに親しまず、いつも恥かし気に顏のみ赤めて筆屋の店に手踊の活溌さは再び見るに難く成ける。
- かの日
- 始める
- 生れかわりし樣
- 折(おり)
- 廓(くるわ)
- もと
- 通う
- さびしがる
- 空約束
- 中よし成けれど
- 正太
- 活溌
- 再び
- 難く成ける 美登利从这天起好像换了一个人,除了有事上花街的姐姐那儿去以外,再不到街上来玩了。小伙伴们觉得无聊,再三去找她,她每次都答应一会儿来,却总也没出来。连对从前那么要好的正太郎,现在也不怎么理他了,见人总是羞答答的,再看不到她在笔店门前跳舞时的活泼天真的姿态了。
まわりの人は不思議がって、病気のせいかと心配する者もあったが、母親だけは微笑みながら、「そのうち**お転婆(おてんば)**の本性がまた出てきますよ。今は、中休み」と、訳ありげに言うけれど、事情を知らない者には何のことやらわからない。「女らしくおとなしくなった」と褒める者もいるかと思うと、「**飛び切り(とびきり)**おもしろい娘をだめにした」と、けなす者もいた。
人は怪しがりて病のせいかと危ぶむもあれども母親1人微笑みては、今にお侠の本性は現れまする、これは中休みとわけありげに言われて、知らぬ者にはなんのこととも思われず、女らしゅう大人しゅうなったと褒めるもあればせっかくの面白い子を種なしにしたと誹るもあり、
- 怪しがる
- 病(やまい)
- せい
- 1人
- 微笑む
- お侠(おきゃん)
- わけありげ
- 女らしい(ウ音便)
- 面白い
- 種なし
- 誹る
有人奇怪,担心她病了,她娘却含意深长地微笑着说:“过两天就会露出顽皮的本性啦,现在是暂时休息哩!” 不知道底细的人哪能猜到这个谜呢?有的称赞说:“那个孩子也有了大姑娘的风度,斯文多了。”有的却惋惜地说:“那么好玩的姑娘,现在变得呆板了。”
その後、表町は急に火が消えたように淋しくなって、歌の得意な正太郎の美声を聞くこともほとんどない。ただ、毎晩見える弓張提灯(ゆみはりぢょうちん)から、正太郎が日掛けの集金に歩いているのがわかった。日本堤(にほんづつみ)を行く後ろ影は何となく寒々として、時々お供をする三五郎の声だけが相も変わらずおどけた調子に響いた。
龍華寺(りゅうげじ)の信如が仏教の学校に入るという噂も、美登利のもとには届かなかった。
表町は俄に火の消えしよう淋しくなりて正太が美音も聞くことまれに、ただ夜な夜なの弓張提燈、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そぞろ寒げに、おりふし供する三五郎の声のみいつに変らずおどけては聞えぬ。 龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、
- 表町
- 俄に
- 淋しい
- 正太
- まれ
- 夜な夜な
- 弓張提燈(ゆみはりぢょうちん)
- 日がけの集め
- 土手
- そぞろ
- おりふし
- 供する
- 三五郎
- おどける
- 龍華寺の信如
- 我が宗
- 立出る(たちいづる)
- 風説(うわさ)
- 美登利
大街和小胡同好像灭了灯火,骤然寂静了许多,再也听不到正太郎的得意的嗓子了。每天,当夜色笼罩了四周的时候,人们一定会看见有一个小小的孤影提着一盏弓形灯笼,冷冷清清地走过堤坝。那就是替奶奶去收利钱的正太郎。只有偶尔陪伴他的三五郎的滑稽的谈笑声,仍旧是那样诙谐有趣。
龙华寺的信如为了钻研本派的教义将要出门上学的消息,一直没有传到美登利的耳里。
生まれつきの負けん気は影をひそめ、このところ続いた訳のわからない出来事に、自分が自分ではなくなったような気がして、何事にもただ恥ずかしそうにするばかリだった。
そんなある霜の朝、水仙(すいせん)の造花(ぞうか)が門の外から差し入れてあった。誰がやったのか見当もつかなかったけれど、美登利は何となく懐かしく心ひかれて、違い棚の一輪揷し(いちりんざし)に入れて、その淋しげで美しい姿を慈しんだ(いつく・しむ)。聞くともなしに聞こえてきた噂によると、その翌日は、信如が僧侶になるため、何とかいう仏教学校に入学する日であったという。
有し意地をばそのままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思われず、ただ何事も耻かしゅうのみ有けるに、ある霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰の仕業と知るよしなけれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思いにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝え聞くその明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かえぬべき当日なりしとぞ。
- 有し意地
- をば(動作・行動の対象を表わす格助詞「を」 + 区別や強調などを表わす副助詞「は」)
- 此処しばらく
- 現象(さま)
- 我れ
- ただ
- 何事
- 有ける
- 水仙の作り花
- 格子門(こうしもん)
- さし入れ置きし
- 仕業
- 美登利
- 何ゆえ
- 違い棚の一輪ざし
- 淋しい
- 信如
- 袖の色かえぬべき
她把以往的怨恨封在心里,这几天为了那愁人的事始终心神恍惚,一味地害羞。在一个下霜的寒冷的早晨,不知什么人把一朵纸水仙花丢进大黑屋别院的格子门里。虽然猜不出是谁丢的,但美登利却怀着不胜依恋的心情把它插在错花槅子上的小花瓶里,独自欣赏它那寂寞而清秀的姿态。日后她无意中听说:在她拾花的第二天,信如为了求学穿上了法衣,离开寺院出门去了。